早いもので、6ヶ月にわたる診療所での勤務が終わろうとしています。
読谷村診療所では、村内だけでなく村外からも数名のスタッフが通勤しており、
日々、読谷村民の皆様のために、温かい、細やかな医療を提供するよう心がけています。
時にはコロナの影響もあり待合でお待たせしたり、
なかなか落ち着いて診療できなかったりなど至らない部分も多少あったかもしれません。
先生方からご指導賜り、外来や訪問診療での点滴やお薬の調整、
紹介・搬送の判断、コミュニケーションを含め、
日々振り返り悩みながら沢山のことを勉強させて頂きました。
スタッフの皆さんにも大変ご迷惑をおかけしましたが、
温かく、励ましのお言葉やご支援を頂きながら、
丁寧な診療を提供していく姿勢を学ばせて頂きました。
居心地の良く、和気あいあいとした雰囲気のなか、穏やかに診療することができました。
私はナイチャーですが、診療所での勤務に先立ち、
地域に根ざした医療を行う上で読谷村のことを深く知らなければならないと思い、
読谷山ミュージアムに行ったことがあります。
読谷村民の皆様はご存知かと思いますが、読谷には遺跡と貝塚が多く、
グスク時代には明(中国)へ宇座の泰期が遣わされた事が進貢の始まりとされています。
ユネスコ世界遺産の一部である座喜味城跡のアーチの石門はほぼそのまま現存しており、
グスクでは最古のものだそうです。
三山時代、読谷山按司護佐丸は中山尚巴志の北山攻略で活躍し、
琉球王朝の三山統一に貢献しています。
初代琉球王尚巴志の遺骨の一部は村内の米軍地区に眠っており、
琉球王朝のゆかりの地でもあります。
おもろさうしに詠まれる歌唱の名人赤犬子は楚辺で五穀豊穣の神として伝えられています。
77年前、米軍が初上陸した本島の地が比謝川河口付近でした。
波平のチビチリガマでの集団自決や国頭などへの集団疎開などを含め、
村人口の20%以上(3924人)を沖縄戦で亡くし、
戦後も移民や基地の被害にあい、苦難の歴史を歩んできました。
それでも、読谷村は佐久川イモやユンタンザウージを開発し、
読谷山花織の技術を復興し、やちむんの里で琉球陶器の工房を誘致し、
沖縄の発展に多大な貢献しています。
読谷村は人口日本一の村であり、
琉球政府の初代行政主席や初代沖縄県公選知事、
国会議員、人間国宝など、数々の偉人を輩出しています。
故郷愛・地元愛が強く、とても素晴らしい村です。
沖縄戦後、本土復帰より50年経った今でも、未だに村の36%が返還されていない状態です。
まだまだ平和と安寧には遠い道中が続きますが、
世界の未来の平和を維持するのと同様に、
未来の子供達のためにも不断の努力が必要なのだと改めて感じました。
歴史・遺産・産業・伝統・行政・平和活動を含め、
精力的に活躍されるこの読谷村で勤務できましたことは、
私にとって誇りであり光栄でした。
最後になりますが、この半年間、診療所の先生方、スタッフの皆様、薬局、施設の皆様、
そして診療所にお越し下さる患者様には誠にお世話になりました。
ご指導頂きまして、改めて御礼申し上げます。
今後の皆様の益々のご健勝とご多幸をお祈り申し上げ、
しまくとぅばで締めくくりたいと存じます。
しーとぅ やんめーや かくすな、
しーや うじんな やんめー うじり
やんめーや ぶし いさんかいみしみそーれー
ちゅはーら むぬ かでぃ くんち ちきれー
くちからどぅ しーらーいーる
皆さん、どうかお元気でカジマヤーまでガチマヤーして下さい、
半年間本当にありがとうございました、にふぇーどー!
金澤 三義
参考文献
世界遺産座喜味城跡読谷山ミュージアムはんどぶっく
読谷村のしまくとぅば2 おばあが語るどぅーよーじょー